Apple Watch の購入からほぼ1ヶ月、さて私は何を思う

TV CMなんてやってたんだ

6月の頭あたりに、Apple Watch Series 4をAppleの公式サイトで購入して、なんとなく1ヶ月あまりが経過しまして。普段はテレビがある居間には立ち入らず、仕事場でもある自室に籠もっているもので、コイツのTV CMがあるなんてのを今日初めて知ったような次第。女の子がエレベーターやエスカレーターに乗ろうとするとApple Watchを付けてる腕を、あたかも時計の意志によって引っ張られて、階段を歩く方向にもっていかれるというヤツ。まさにそれ。

1ヶ月くらい使っていて、最初は親しみを込めて"時計さん"と呼んでいたんです。いろいろよくやってくれるよなと。でもね、2~3日前にふと気がついて。コイツ「歩けよ、起きろよ、頑張れよ、目標もうすぐだし、やればできるよ、できるって信じろよ」って、ずっと人のケツ叩くんですよ。実際には手首トントンなんだけど、もう気持ちとしてはケツ叩くんですよ。それも一日中な。

で、一昨日あたりから愛称が"修造"になりました。いやいや、どこの誰ってことではなくてね。明らかにどこかの誰かのイメージだけど。

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ユビキタス・コンピュータ、あるいはどこでもコンピュータ

20年近く前だと思うんですよね。仕事で東大の坂村先生(当時、教授だったと記憶してます)のところに取材でお邪魔して「どこでもコンピュータ」の、すんごい大枠な概念を伺って、それからしばらくして、たしか横浜のほうだったと思うけどで日本で初めてのユビキタス関係の講演イベントがあって。記憶が正しかったら当時、大阪大の助教授だった塚本先生も講演されていたようないなかったような。

申し遅れました。私ライターです、プロの。最近のぽっと出で、いい加減なウェブ記事を安い銭でちろっと書いてるだけで「私プロのライターなのよ」みたいなのでなくて、まだ紙媒体が元気だった頃からのキャリア20年超えたガチモンです。ま、どうでもいいことだけど。

ちと話の内容がApple Watchすげーみたいなミーハー方向じゃないわけですけど、まあほら、そういうのはいくらでもそこら辺に転がってますし。Youtubeなら開封の儀がどうとか、机の上にほれ見ろといわんばかりにMac Bookもおいてドヤーみたいなのもあるしさ。上げていきたいということならば、ぜひそっち行ってください。すごく雑にまとめておくと、たしかにApple Watchはいいですよ、とだけは書いときますけど、ここでの話は、もうちょっとだけモヤッとした概念的なものになります。

要はどこにいても、コンピュータ端末が体のどこかで触れられるような場所にあって、それが常にネットワークに繋がっていて(ここが大事)、人間の行動判断の材料としての情報が得られますよと。これがユビキタスであり、どこでもコンピュータ、どこでもコンピューティングの概念。

20年前に足りなかったもの

しかし"どこでもコンピューティング"ってね、藤子不二雄かってね。ドラえもんの道具じゃないんだからさ、もうちょっとあったろうにって、当時はそっちに気がいってましたっけね。賢い人ってのは一般に服装に気を遣わなかったりするじゃないですか。アインシュタインの髪型とかさ。センスがないってやつなんだけど。何かを得て、何かを失っているっていうかね。当時からユビキタスっていう英語があったわけだから、それでいいんじゃないかと。ところがこれ調べてみたら、ユビキタスが提唱されるよりも先に、坂村先生が概念としてどこでもコンピューティングを提唱されていたらしい。OMOTENASHIみたいに、このまま英語にならなかったのはよかった...とか言っちゃいけないんだろうけど、なんだろう、このホッとした感じ。

当時だって携帯電話はあったわけです。時代的にiモードレベルだけど。だからなんとなく、携帯電話がそのどこでもコンピューティングの主端末なんだろうなって想像はできたんですけど、iモード(ezWebでもいいけど)は通信速度が遅すぎて話にならなかったんですね。

もちろんノートPCもあったし、PDA(Personal Digital Assistant、個人向け情報端末)もありました。自分も持っていたけどHPのJornadaとか。これにPHSカード刺せば一応持ち歩いてインターネットはできたんです。OSはMicrosoft Windows CE。どうだろう、Webが見れてメールができるとはいえ、スケジュール帳とアドレス帳レベルのオモチャでしたけどね。結局、ほとんどの世の中の営業マンはシステム手帳使っていたし、PDAが世間を席巻したってのはありませんでした。

昔話がしたかったわけじゃないんだけど、ふと充電してる修造を横目で見ていて「そうか、やっとユビキタスの時代なんだな」って思ったわけです。20年かかったんですね、ここまでくるのに。

ほとんどの人がスマートフォンを持ち、スケジュールやアドレス帳だけでなくて、電話ができて、写真も動画も撮れて、音楽プレイヤーであり、電車やバスの定期券で、店頭での電子決済の端末でもある。なによりも大きいのは高精度のGPSが付いたところかもしれない。地図もカーナビもいらなくなっちゃった。

そこに腕時計ですよ。スマートウォッチそのものは、まだ「みんな持ってるし、ボクも欲しいし」って子供が駄々をこねるところまでは来てないわけですけど、TVでCMするくらいにはきていると。心電図や心拍数、転倒感知で緊急通報、やろうと思えばウルトラ警備隊かっていう時計での通話もできるときた。

端末メーカーの誤解

20年前、何が足りなかったんだろうって思うと、国家政策の衛星まで絡むGPSはとりあえずおいておくとして、まずはバッテリーの容量と通信速度、そして端末のCPU処理速度だったんですね。液晶もチープだったけど、多分それは大きな問題じゃないです。写真の歴史がそれを裏打ちしていて、いいカメラなんか必要なかったから、写ルンですっていう簡易カメラ(レンズ付きフィルムという名目)で、国民のほとんどが納得していたんだから。当時のケータイのカメラとディスプレイだって十分なんです。画面の広さは欲しがっただろうけどさ。

スマホの端末メーカーは何か勘違いをしていて、死滅した写真業界から何も学んでないんですよ。カメラが高性能でどうとかって必死に宣伝するけど、ほとんどの人の要求スペックはとうに超えちゃってます。何年も前にね。どういうことかって、熱心に写真撮っても、撮ったあとはそのスマホで見てるだけなんだから。6インチ程度の画面にそこそこの画質で出てたら、誰も文句いわんのです。今時、誰がそれを四つ切りでプリントすんのかってね。なんで写真のメインがサービス判と呼ばれたE判やL判だったのかってことです。これ12cm * 8cmくらいのもんです。そう、まさにスマホの画面程度。

やるべきことは、20年前にユビキタス/どこでもコンピューティングに移行できなかった理由の部分の強化。ぶっちゃけ、まずはバッテリー。通信速度は5Gで上がる、そしたら5Gできたデータを処理できるだけのCPUの処理速度がいる。その時にバッテリーの減りが今より早くなったらいけない。だから第一はバッテリー。少なくてもカメラじゃない。

2019年6月にSONYがXperia 1出して、こいつ旧型よりカメラの解像度下げてきたんです。英断だと思ってます。必要ないんですって解像度は。

でさ、修造なんだけど、老眼には画面小さいんですよね。かといって、これより画面大きくしたら時計としてのバランスが崩れちゃう。重くなるのも困る。だけどバッテリーがもたない。ワークアウトすると2日はもたんのです。もって1日半。だから結局毎日小一時間充電することになる。当然これ、バッテリーが劣化します。

まだ成熟はしてないんだな、スマートウォッチは。完成型を見るには、あと何年かかるんだろうと。そして、「本当に腕時計の形態でよかったんだろうか」の答も、まだ出てないような気もするんですよね。

そのわりには発売開始からかれこれ半年以上たつのに品薄なんだよな。